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岡本太郎の言葉

  • 執筆者の写真: 西村 正
    西村 正
  • 2019年1月19日
  • 読了時間: 2分

 今回は岡本太郎について思い出したことを書く。前々回のブログに私は、上野駅にある猪熊弦一郎の壁画のことを書いたが、駅の壁画と言えば、渋谷駅のJRから井の頭線に向かう通路には岡本太郎の壁画が飾られている。岡本太郎は1970年の大阪万博の会場を飾った「太陽の塔」でも有名だが、私にとって一番心に残っているのは、彼が朝鮮文化について語った言葉である。

 私は20代の頃、朝鮮語や朝鮮文化に興味を持ち、韓国を何回も旅行したことがあった。岡本太郎の言葉に出会ったのはそれより少しあとのことだが、それは何かの本に引用されたものだったので、最近になって探してもなかなか見つからなかった。しかし先日、実はこれもインターネットでなのだが、平井敏晴著・岡本敏子監修『岡本太郎が愛した韓国』(2004年)という本を見つけて購入した。その中に私は、記憶の中に焼き付けられた彼の言葉を確認することができた。

 韓国の仮面劇などの民族芸術に、彼は「楽しさ」「無邪気さ」「生活感」を見出し、さらにその魅力について、


「色も形も決して固定していない。いつでも爽やかに流れている。それは中国文化のがっちり動かない完結した表情の古典性とも違うし、また日本の伝統芸術に見られる技巧的な渋い形式美とも違う。こだわりのない、つきぬけて行く軽やかさがあるのだ」


と言っている。さらに文房具や調度品について、


「中国的技術は取り入れて精巧だが、それを北方的な流動感で独自に生かしている」


と指摘する。私にとって最も印象的だったのは、この「北方的な流動感」という表現である。それは、まさに私が韓国を歩き回って感じたものをズバリと言い表してくれたように思えたのだった。

 世の中には中国と韓国(朝鮮)をいろいろな点で同一視している人たちがいるようだが、私は両者の文化的根底にあるものは全く違うと感じる。中国文化には勿論尊敬の念を抱いているが、韓国朝鮮文化には、直感的に血が騒ぐような愛着を覚えるのである。おそらく日本人のルーツの一つなのであろう。韓国にはもう長らく行っていないが、また行って今度はぜひ田舎を訪ねてみたいと思っている。 (2019.1.19

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