叔父の思い出(1): 叔父と私
- 西村 正
- 2018年8月19日
- 読了時間: 2分
更新日:2024年5月15日
世田谷の家での話である。うちで「おじちゃん」と言えばそれは俊郎叔父のこと。では叔父は私を何て呼んでいたのか。記憶の限りでは、叔父に「ただし」と呼び捨てにされたことは一度もない。叔父は私を「ぼんちゃん」または「ぼん」と呼んでいたのである。私の両親は勿論のこと、榮子叔母も祖母も私を「ただし」と呼び捨てにしていたのに、叔父だけがそうしなかったのは考えてみると奇妙なことであるが、おそらく私との距離を測りかねていたのかもしれない。
叔父は時間などについては人に合わせることをめったにせず、頑なに自分のペースを守っていたので「芸術家は自分勝手なものだ」と思わせることが多かったが、私の面倒は結構みてくれたと思う。自転車の荷台に私を乗せて幼稚園まで送ってくれたこともあった。しかし、あるとき、自転車に私を乗せたままスタンドを掛けて叔父が家の中に何かを取りに行っている間にその自転車が倒れ、私は地面に顔を打ち付けて泣いた。そのときの恐怖感は今でもトラウマとなって残っているが、懐かしい思い出ではある。また、父とはボール遊びをした記憶などほとんどないのに、叔父とはキャッチボールをしたこともあった。しかし一番の思い出は叔父が何回か日帰りの写生旅行に連れて行ってくれたことである。山梨県の猿橋に行ったときは、私は叔父がイーゼルを立てて写生している近くの川で泳いだりしていた。犬吠埼へ行ったときは両国から銚子まで、当時かろうじてまだ使われていた蒸気機関車に牽引された客車に乗ったことが思い出深い。ここまでは私が小学生くらいまでの話である。
私が高校3年のとき、大阪で万国博覧会が開かれた。このとき叔父は、自分が費用を出すから万博と京都見物をしておいでと言って、自分が京都に写生旅行に行ったときに泊まったことがある宿を紹介してくれた。万博会場でも宿でも外国人観光客の姿が多く、いろいろな外国語に関心があった私には本当に刺激的な有り難い体験であった。叔父とはこのような交流があったが、身近にいても叔父は私に絵を教えようとはしなかったし、私も絵を習おうなどとは全く考えたことがなかった。 (2018.8.19)
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