外国語への想い
- 西村 正

- 2019年5月18日
- 読了時間: 3分
西村俊郎がどのくらいフランス語を使えたかというのは興味あるところだが、私の知る限りでは叔父が使いこなした(?)のは「ボンジュール」と「メルシー」だけではないかと思う。「フランス語会話練習帳」のような本に書き込みをしながら勉強していたのを見た記憶もあるが、困ったときは多少の英語を使いながら乗り切っていたらしい。叔父は画家であって語学を勉強しに行ったのではないのだから、現地の生活に最低限困らなければそれでいいと割り切ったのはむしろ当然のことであると思う。片や私の父である兄・羊三のほうは若いときフランス語を専攻していたのについに一生現地に行くことはなかったのだから皮肉なものである。ただ父は叔父に頼まれて時々仏語の手紙を書いていたようだ。父は戦時中、陸軍に召集されて朝鮮経由で「北支」(これは昔の言い方であって、今は華北というべきか。)に行ったそうだが、朝鮮語や中国語を耳にしたときに「美しい」と感じたという感想を語ってくれたことがあった。ただし「若い女が喋るのを聞くと」という条件付きではあったが。些細なエピソードだが、そんな父の態度は私に大きく影響したように思う。私はヨーロッパの言語に興味がなかったわけではないのだが、専攻するならアジアの言語を、と考えるようになったのである。当時は外国語と言えば「英独仏語」とロシア語、スペイン語、中国語から選ぶことが一般的であり、NHKの語学講座も以上の6言語に限られていた。さらに、「英独仏」は「学問のための教養語」だが、「露西中」は「特殊な目的をもってやるもの」という意識があったように思う。NHK語学講座について言えば、その後「ハングル」(これは本来言語名ではなく文字の名称だが、「講座名を”朝鮮語”にすべきか”韓国語”にすべきか」という当時あった論争に終止符を打つために選ばれたものである。)とイタリア語が加わり、今では学習者の数では、英語は断トツの1位だろうが、独仏露語よりも中国語や「ハングル」のほうが学習者が多いようだから、時代は変わったものだと感じる。ところで外語大で私が選んだモンゴル語学科は戦前は「花形」だったらしいが戦後は「需要が少ない」学科になってしまい、その分「アカデミズムに向かわざるを得ない」(?)雰囲気があったように思う。
どんな外国語の学習でも、やる気さえあればある程度までは比較的容易に身に着けることができるとしても、高度なレベルまで習得するとなると、よほどしっかりした目的意識と学習環境がなければ簡単にはできないものである。とは言え、少しでもやる気があるならやったほうがいいと私は思う。「英語もマスターできないのに他の外国語なんか無理だ」という考え方もあるかもしれないが、「マスター」なんて所詮無理なのだ。外国に行くことがあれば、何でも英語で押し通すよりも少しでもいいから現地の言葉を使ったほうが、話す方も話しかけられた方も楽しい思いができることは間違いなかろう。それは国際理解と親善への小さな一歩になると言っても決して過言ではない。その意味で、「現地語」を端から使ってみようとしない人を見ると私は「もったいないなぁ」と感じてしまう。「ネイティヴスピーカー」はその言語に関しては言わば「神様」のような存在ではないだろうか。もっとも、その国にいる人が全てその国の言葉の「ネイティヴスピーカー」であるとは限らない。叔父を訪ねてパリに行ったとき、街を歩いているとかなり頻繁にフランス語で話しかけられた。いろいろな人種の人がいた。「フランスでは皆フランス語を話すんだ!」と当たり前のことに感動した覚えがある。「平成元年」のことである。
いささか散漫な内容になってしまったが、今回は常日頃考えていることを書いてみた。あれから30年。気がつけばもう「令和元年」になっている。 (2019.5.18)
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