宇佐美 承 『池袋モンパルナス』を読む
- 西村 正
- 2021年10月10日
- 読了時間: 5分

宇佐美 承(うさみ・しょう)
1924年、中国・天津生まれ
朝日新聞社会部記者、朝日ジャーナル副編集長、出版局編集委員などを経て、記録文学作家
2003年、死去
本書は1990年6月、集英社から発行
この本が世に出てから31年、私がそれを入手してから9年、この秋、初めて私はこの本を開き、そして全編を熟読した。タイトルの「池袋モンパルナス」が実在したのは大正の終わり頃から敗戦直後までの20年間ほど。それは西村俊郎が北海道から東京に出てきて絵の修行を始めた時期と重なる。実際、叔父が東京に出てきて初めて住んだのは池袋からほど近い椎名町であったと本人が言っていたのを聞いたことがある。しかし私が知る限り、叔父はこの本に登場する画家たちとは色々な意味で遠いところにいたようだ。
この本には人名索引がついており、登場する人名は実に683名におよぶ。上位20名の名前と登場回数は次のとおり。(括弧内は登場回数)
寺田政明(51)、麻生三郎・井上長三郎(36)、靉光(石村日郎)(32)、吉井忠(31)、
小熊秀雄(27)、古沢岩美・松本竣介(24)、佐藤英男(22)、柿手春三・福沢一郎(21)、
里見勝蔵・竹谷富士雄(20)、丸木位里(19)、鳥居敏文(18)、
大野五郎・桑原實・藤田嗣治(17)、熊谷守一・佐田勝(16)
ここでは、ダントツ1位の寺田政明(1912—1989)と、小熊秀雄(1901—1940)、それに桑原實(1912—1979)の三人についてのみ簡単に触れておきたい。この本の「プロローグ」の中で著者・宇佐美は小熊が昭和13年に「サンデー毎日」に書いた「池袋モンパルナス」と題する文章を引用している。
池袋から長崎町にかけては、芸術家と称される種族が住んでゐる。それと並行的にダン サー、キネマ俳優など消費的な生活者に、無頼漢、カトリック僧侶など異色的人物を配し、サラリーマン、学生等が氾濫してゐる、地方人の寄り集まりであるこの植民地東京の中でも最も人種別においてバラヱテーに富む池袋付近は、従つて東京人の精神的機構を語る材料がタップリある。なかでも神経質をもつて売物とする芸術家の生活において、脳の働きと心臓のチックタックの状態が醸し出す不思議な雰囲気は恰も巴里の芸術街モンパルナスを彷彿させるものがある。
………
遠く池袋の空が夜の光を反映して美しく見える頃、画家達はパチリパチリとアトリヱの電灯を消して長崎町から、池袋へ出かけて行く、特別の用事があるわけではなく、ただ遠くの手がさし招くままに、足がふらふらとその方向に向いて行くのである。
池袋モンパルナスに夜が来た
学生、無頼漢、芸術家が街に
出る
彼女のために、神経をつかへ
あまり太くもなく、細くもない
ありあはせの神経を----。
………
「池袋モンパルナス」という呼び名は、詩人・小熊秀雄の命名らしい。小熊は明治34年、北海道小樽・稲穂町の生まれである。西村俊郎は明治42年に同じ小樽・稲穂町で生まれているから、二人は生涯出会うことはなかったにしてもお互いに近い時期に全く同じ町で生まれたことになる。引き続き、宇佐美の文章を引用しよう。
小熊は寺田政明たち絵描きと親交をむすび、すぐれた絵画批評をものし、みずからも絵筆をとり、太平洋戦争のはじまる前年、昭和十五年の初冬、血を吐いて死んだ。場所は熊谷守一の家ちかく、千早町のぼろアパートの四畳半の間、享年三十九歳であった。のちにくわしく述べるが、寺田政明は池袋モンパルナスの名物男で、七十七年の生涯を終始あかるく生きたのち一九八九年の夏、世を去った。長男は俳優寺田農である。
この本の中で寺田に関する部分が一番多いのは、著者が寺田にインタービューする機会が一番多かったからだろう。著者の記述は多くの参考文献に支えられているが、当時存命中で実際にインタビューすることができた人物は限られていたに違いない。寺田の話は活き活きとしていて面白く、最後に「本当の話だ」という彼の口癖で終わるところが印象的である。
一方、桑原實については他の人の思い出話の中などで名前が出るのみで、インタビューをした形跡がない。実は桑原は私の中学校時代の美術の先生であった。当時50代であったはずである。ちょっととっつきにくい感じがしたが、私はある時、桑原先生にちょっとだけ絵を誉められたことがある。それは工事現場で一人の労働者が夕陽に向かって立ち、こちらに背を向けている構図の水彩画であった。先生は覗き込んで「いいじゃないか」と言ってくれた。働く人を描いたことに関心を示してくれたのか当時はよく判らなかったが、この本を読んで、その時の先生の気持ちが何となく分かるような気がした。先生はその二年後に東京芸大の助教授になって私のいた学校から離れたが、私はずっと後になってひょんなことから桑原作品と出会って先生を思い出すことになった。その絵は『双生児連弾』と題するもので、双子の女生徒がグランドピアノを連弾しており、開け放たれた窓には水色のカーテンが風にそよいでいる、1955年の第49回二科展出品作品であった。先生が中高一貫校であった私の母校に赴任して2年目の作品であり、多くの双生児が学んでいる環境が先生にとって新鮮であった様子が窺える。
二科会は、官展である文展(現・日展)から1914(大正3)年に分離して在野の美術団体として結成された団体であり、写実に縛られない自由な気風を特徴とすると言っていいだろう。池袋モンパルナスに集う画家たちには様々な画風が見られたようだが、おおむね二科に通じる自由な気風が身上となっていたようだ。一方、西村俊郎は二科の存在を知らなかったはずはないが、その影響は受けなかったように思われる。それでも、私の父や叔父が芸術や学問の灯りに惹かれるように北海道から東京に出てきた昭和3~4年頃の文化状況は私の関心を引いてやまないのである。そして、宇佐美 承の『池袋モンパルナス』はその想いに十分応えてくれる本であると思う。 (2021.10.10)
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