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小樽 ~西村俊郎の生まれ故郷~

執筆者の写真: 西村 正
西村 正
2018年9月26日
読了時間: 2分

更新日:2019年2月10日

 今回は、北海道小樽のことについて。西村俊郎が少年時代を過ごした頃の北海道で最も人口が多かった町(当時は区と呼ばれていた)は函館で、次が小樽、3番目が札幌だった。1920(大正9)年の統計によると、函館144,749人、小樽108,113人、札幌102,580人となっている。その後は札幌の人口がどんどん増え続けるが、小樽(手宮)・札幌間にすでに鉄道が敷かれていたこともあって、小樽は札幌とともに北海道経済の中心的な役割を担っていくことになる。当時は南樺太が日本領だったので、小樽港には樺太産の木材が大量に運び込まれた。俊郎の父・甚助も材木を扱う実業家だった。

 小樽は商都として発展し、文学など芸術・文化の活動も盛んだったようだ。ここに一枚の写真がある。これは新潮社の「新潮日本文学アルバム28 小林多喜二」に掲載されているものだが、この中に写っている西村羊三は俊郎の兄、つまり私の父である。私はこの写真で初めて父も絵を描いていたことを知った。小林多喜二が一番年上で父が一番年下だったという。この会の名前は「小羊画会」だが、多喜二が父に向かって「この会の名はまるで西村君のためにつけたようなものだね」と言って笑ったという話を父が私にしてくれたことがあった。多喜二といえば、高商(現・小樽商大)の後輩に伊藤整がいるが、彼は多喜二の存在を相当意識していたらしい。伊藤整の『若き詩人の肖像』を読むと、そのことも含めて当時の小樽の文化状況がよく分かって面白い。なお、西村俊郎はこの会に参加していない。

 1922(大正11)年には市制が敷かれ、人口は1960(昭和35)年に20万人というピークを迎えるが、現在は12万人を割っている。これはおそらく200万都市となった札幌に(北海道の基準からすれば)あまりにも近すぎるということも関係しているのだろう。「観光都市」としてのイメージが強くなった小樽だが、小樽の歴史に対する小樽人の自負には相当強いものがある、と私は感じている。(2018.9.26)

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