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小樽から洞爺湖へ、そして東京へ

  • 執筆者の写真: 西村 正
    西村 正
  • 2018年9月27日
  • 読了時間: 2分

更新日:2019年5月7日

 「かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 聲の荒さよ」 ---- 石川啄木は小樽の労働者をこう詠ったが、それは当時の小樽の活気を表すものでもあるだろう。産業の発展とは資本主義の発達に他ならず、それは必然的に文化や政治思想の発展をも伴う。要するに当時の小樽は、北海道において先進的な都市であったということだ。

 さて、俊郎と羊三の父・甚助は、のちに洞爺湖でホテル業を営むことになる。一家はそれに合わせて小樽を離れて洞爺湖畔に移住した。だからこの兄弟は青年期を洞爺湖で過ごしたことになる。そのホテルは当時の洞爺湖で初めてのものだったらしく、兄弟の母・イトが中心になって経営していたと聞く。しかし甚助亡き後の洞爺湖は、一家にとって結局は東京に繋がる中継地に過ぎなかったと言えよう。と言うのは、この兄弟は家業を顧みずに、二人ともそれぞれの関心を追って東京に出て行ってしまい、母親のイトもホテルを手放して息子たちを追うように洞爺湖を離れ、東京に向かったからである。

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 我が家には、洞爺湖時代の一家の思い出に繋がるものがひとつ残されている。それは私の祖父・甚助の胸像である。祖父は1938(昭和13)年に64歳で亡くなったが、その翌年にこの胸像を「洞爺湖電気鉄道株式会社」から贈られた。この像の制作はデスマスクを取るところから始まり、表情などの細かいところは、一番父親に似ているということで俊郎叔父がモデルになったと聞いている。作者は北大のクラーク像(初代)をつくった田嶼硯朗(タジマ・セキロウ)氏である。そのことは田嶼氏のご親族が出版した本によって最近になって知ったことなのだが、この像はひょんなことから戦争末期の「金属供出」を免れたもので、田嶼氏の現存する数少ない作品の一つであるとのことだ。当初は洞爺湖畔に置かれることになっていたそうだが、妻のイトが「鳥が糞を掛けるからだめだ」と言って倉庫に仕舞い込んだのだという。その後、私が幼児の頃、洞爺湖から世田谷の家に送られてきて座敷の隅に置かれていたが、今は横浜の家の庭の木陰でひっそりと家族を見守ってくれている。

 父・羊三は戦時中は軍曹として北支戦線にいたが傷病兵となって復員し、戦後は東京で俊郎叔父と二人で肥料やスレートを扱う商売をしたこともあったと聞く。しかし所詮長続きするものではなかったようだ。

 さて、ここで話は私の「管理者自己紹介」に繋がるのであります。 (2018.9.27

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