藤田嗣治についての本
- 西村 正
- 2019年7月9日
- 読了時間: 5分
更新日:2019年7月11日
藤田嗣治について書かれた本は数多いが、現在、私の手許にあるのは、
林洋子監修『旅する画家 藤田嗣治』(2018年、新潮社)
平山周吉著『戦争画リターンズ 藤田嗣治とアッツ島の花々』(2015年、芸術新聞社)
笹木繁男著『藤田嗣治-その実像と時代-(上巻)』(2019年、現代美術資料センター)
の3冊である。笹木繁男氏の本はまもなく下巻が出ることになっている。私が藤田に関心を寄せるのはもちろん叔父・西村俊郎と接点があるからだが、そうでなくてもきっと興味を持っただろうと思う。そのくらい藤田嗣治は魅力的だし、インパクトが強い。笹木氏の本は西村俊郎と藤田嗣治の接点を探る上で有力な資料になると思われる。また、林洋子氏の本は昨年の東京都美術館の藤田展に合わせて出版されたので非常にタイムリーな本であった。しかし、今回は平山氏の本を読んで感じたことや考えたことを少し書いてみたい。
この本は芸術新聞社のウェブサイトへの連載をまとめたものを中心にした48の記事から成っている。1回の分量が比較的短いので読みやすく、面白く読むことができた。とは言え、ここでは書評が目的ではないので、この本を読みながら私が特に面白いと思った箇所と、この本にあった記述がヒントになって私が考えたことを書いてみる。400ページ以上にわたるこの一冊を読み終えてみると、私は自分が2箇所に付箋を貼っていることに気づいた。この本には引用による紹介部分が非常に多いが、この2箇所はどちらも他書からの引用である。
① 【「毎日グラフ臨時増刊1967.11.3」、草森紳一による戦争画の評価】
反対とか賛成は個人の心の問題であって、えがかれた絵は、そんな心を裏切ってしまうことが多いんだ。それより、戦争という〈もの〉を、はたして束縛の中でみつめられたかどうかだ。藤田嗣治は、さすがだよ。佐藤敬もよい。だいたい戦争という状況の中では、だれでも気が顚倒してしまうものだ。逆にいえば、このような時こそ画家としての力量がばれてしまうんだ。
藤田嗣治が、戦争反対だったか賛成だったか知らないが、彼は、戦争という〈もの〉をかいている。彼の絵は、いまみると戦争中にあっても、軍部を納得させる力をもっているし、戦後になっても、あわてものの左翼陣営に、戦争のいたましさをかき、批判精神がある、とみてもらえる、そんなずるさを絵にひめている。これは、彼がそれを予想して、ずるいかきかたをしたというより、戦争という〈もの〉がかけたからだ。
② 【田中穣『藤田嗣治』(新潮社)からの引用】(軍の高官たちが藤田の麹町のアトリエで、できあがったばかりの「哈爾哈河畔之戦闘」を見て帰ったあと、藤田がその場に残っていた編集者の藤本韶三ら民間人に、もう一つの同名作品を見せた時に語った言葉)
「ではご開帳といきましょう」
そういったフジタは、歌舞伎の開幕につきもののあの拍子木の音を徐々に早く、歌うようにとなえながらゆっくりとカーテンを開いていった。
そこに、藤本は恐るべきものを見た。つい先刻まで軍の高官たちがうつつをぬかしていた「ハルハ河之戦闘」とカーテン一枚をへだてただけの場所に、同じフジタが描いたとは決して思いも及ばないもう一つの「ハルハ河之戦闘」の図がかくされていたとは?
画面全体をおおうように、そこには赤黒く燃える焔が描かれていた。その下に日本兵の屍が累々と横たわっていた。半裸体になった腹や足には、蠅がとまり蛆虫がはいだしているのさえ見えるその上を、ソ連軍の戦車が冷酷無惨に踏みにじる図だ。
二人は息をつめた。生理的にやりきれなかった。思わず目をそむけずにはいられなかった藤本は、平安末に描かれたあの「地獄草紙」も、この悲惨残酷にくらべればはるかに救いがあると思った。
「どうだ、傑作だろう」とフジタはにやりとした。「これだけリアリズムのかけるおれの腕をわかってくれればね、それでいいんですよ」
「・・・・・・」
「すくなくとも、君らだけには、わかっていてもらいたくてね」
藤本にはことばもなかった。
「さあ、しまうよ」とフジタはいった。「人目につかないうちに、早くかくれていただかないと、あぶない、あぶない」
ふたたび歌うように急速調な拍子木の音をつぶやきながら、人にはさわらせられぬ大切な品を、そのくせちらりとだけ見せておいて得意がる子供よりももっと単純な得意さで、フジタはカーテンをしめていった。
そのときだった。藤本は得意なフジタの横顔にギクリとした。そこには無邪気そのものと、神を恐れぬふてぶてしさとが、天使と悪魔とが、二つながら同じ顔にのぞいているのに。
この本の著者である平山氏のコメントは省略してしまったので、この二つの引用はあくまでも私の関心によるものである。そしてそれは、昨年の東京都美術館での藤田嗣治展を見たときに感じたことでもあった。私の感想は、一言で言えば、「この人は何でも絵にしてしまうことができるんだ!」という驚きであったが、藤田自身、自分を誇りを持って「アルティザンartisan=職人」と位置付けていたのだろう。私の叔父・西村俊郎にもそういうところがあったと思う。しかし、藤田の多様さに対して西村俊郎の関心はこんなに「多様」であったとは思えない。本郷絵画研究所で、西村俊郎は藤田嗣治とどんな会話を交わしたのか? 知りたいところである。現在、西村俊郎のこの時期の作品として確認できるのは当ウェブサイトの「資料室」にある「第8回海洋美術展出品作品」(絵葉書)だけだが、この数字に間違いがなければ、その展覧会は1944(昭和19)年のはずである。その年のことについては、笹木氏の本では下巻に含まれているものと思われる。戦争責任の問題については回を改めて書いてみたい。 (2019.7.9)
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