西村俊郎の<戦時中の資料>を発見
- 西村 正
- 2023年9月11日
- 読了時間: 2分


「戦線文庫」第70号の目次 西村俊郎「海女」と思われる作品
不思議なこともあるものだ。この夏、我が家では世田谷からの引っ越し以来30年以上一度も包みを開けて取り出したこともなかった食器を処分した。それは80年以上前に洞爺湖でホテルを経営していた頃使われていたと思われる食器で、雑誌を破ったような紙に一つずつ包まれていた。ある器を取り出そうとした時に発見されたのが左側の写真に写っている古い雑誌の目次部分である。しわが寄っていて読みにくいが、よく見ると「西村俊郎」の名前が印刷されているではないか!! ウィキペディアを頼りに調べてみると「戦線文庫」というのは当時の「大日本帝国海軍」が発行していた兵士向けの雑誌で、1938(昭和13)年から1945年まで少なくとも77号まで発行されたという。70号というのはおそらく昭和19年8月頃のものと思われる。「海女」と題された作品は「第8回海洋美術展出品作品」として当
ウェブギャラリーの「資料室」のページで紹介されている作品に間違いない。というのも当ウェブギャラリーの「西村俊郎年譜」には
【33歳】 1942(昭和17)年 藤田嗣治先生に師事して戦争美術、海洋美術展に出品。
海洋展にて朝日新聞賞を受賞し、政府に買い上げられる
(註★画家本人の記述による)
と書かれており、時期的にも一致するからである。ただ私は「海女」というタイトルは初めて見たし、「口絵原色版」となっているところを見ると、「戦線文庫」第70号の口絵を見れば原画の色が判るかもしれないと思って期待した。しかし現在横浜市立大学図書館に保存されているという資料リストを見たところ、残念ながら55号までしか残されていないことが判った。「海洋美術展」というのは海軍関係の展覧会であるし、西村俊郎が当時の横須賀海軍基地にいたことも確かなので、話は全部繋がった。しかし叔父の作品がこういう形で使われていたことを私は初めて知ったのであった。戦時下では画家に限らず音楽家も文筆家も、本人の意思に程度差はあったにせよ、戦争に総動員されていたことを考えると、本人がどういう気持ちでいたのかは今となっては想像するしかないが、少なくとも戦後になって具体的な話や、ましてや自慢話のようなものを聞いたことは一度もなかった。それにしても、こんな情報が載った紙切れが今年になってなぜ我が家で発見されたのか?偶然とは言え、何か因縁めいたものを感じざるを得ないのである。 (2023.9.11)
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